『湯を沸かすほどの熱い愛』W座 ★★☆☆☆ ネタばれ
一つには家族というものに血のつながりがはさほど重要じゃないということ、しかしいくつになっても、実母への愛は忘れられないということ。例えそれが、身勝手な理由で自分を捨てた母であっても、である。
信濃八太郎も小山薫堂も「泣けた、泣けた」(特に信濃八太郎)の大絶賛だったが、僕には全体を通じてあまり心に響くものがなかった。当然、いわゆる泣ける部分もなかった。
突然、家から出て行って行方不明になってしまうようなちゃらんぽらんな夫のオダギリ・ジョーははまり役だし、突然末期癌を宣告され数ヶ月後には緩和ケア病棟で麻薬漬けにされてしまう宮沢りえは痩せ具合といい本当の病人にしか見えず直視できなかった。たまに丸々太った健康体の女優を癌で死ぬ役に使う場合があるが、あっちの方がどこか痛々しい現実を和らげる効果があって見る側には調度いいのかも知れない。
ラストについては賛否両論あるだろうが、死んだ宮沢りえを釜で燃やしてその沸いた湯で銭湯に入るというのは、ちょっとやり過ぎではないか、と僕は感じた。
あれによってファンタジーとしての要素が深まったという意見もあるそうだが、僕にはファンタジーでもホラー感の方が強く感じられてしまった。
『ナラタージュ』
“ナラタージュ”はナレーションとモンタージュが合わさった言葉とのこと。ナレーションに沿って画面が展開するという映画の場面の技法だそうである。
高校時代の教師、葉山貴司(松本潤)にひたすら愛を傾ける工藤泉(有村架純)。工藤らは母校演劇部の難局に助っ人として呼ばれ、文化祭公演の手伝いを頼まれる。久しぶりに会った同級生たちとの旧交を温める一方、かつて恋い焦がれた葉山にも工藤は再会することになる。工藤の決して消えることのなかった葉山への恋慕の情は、再び燃え上がることになる。演劇部の助っ人には工藤に想いを寄せる小野(坂口健太郎)もいて、どうしても消せない葉山への不毛な想いを抱きつつ、工藤は小野との付き合いを始めることを決心する。そんな折り、工藤は葉山の妻はメンタルを病んで北海道の実家に戻ったきり帰ってこない。ただし葉山は妻の境遇についても気にかけている。工藤は結局妻のところに帰って行くんだったかな?
それほど以前に読んだわけではないのに、ストーリーについては朧気にしか憶えていない。映画は見ていないけれど、坂口健太郎は役柄に合っているような気がした。でも松潤はどうかなと思うし、それを言えば、有村架純にしても子どもっぽくて役に合っていないような気がした。
それほど以前に読んだわけではないのに、ストーリーについては朧気にしか憶えていない。映画は見ていないけれど、坂口健太郎は役柄に合っているような気がした。でも松潤はどうかなと思うし、それを言えば、有村架純にしても子どもっぽくて役に合っていないような気がした。
『永い言い訳』
キャスティング自体は小説を読んで想像していたのとあまり違和感はなかった。
敢えて言うならモっくんにやや違和感を感じる。じゃあモっくんでなければ誰?と言われたら、それもあまり浮かばないのだけれど、福山雅治あたりでも良かったような気もする。
モっくん演じるのは、ちょっと小説が売れたことで調子に乗って芸能人気取りの振る舞いをしている軽薄な男だが、ハンサムで、髪が伸び放題になって汚くなっても何となくフェロモンが漂ってくるような40代男。
本木雅弘はとにかく性格の悪いすげーヤなヤツ。
そして、モっくんの妻である深津絵里は仲良しの堀内敬子と旅行に行くが、そのバスが事故を起こし湖に転落して唐突に死んでしまう。彼女が事故で命を落とした正にその瞬間、モっくんは愛人の黒木華を自宅に呼んでやりまくっていた、という設定。その後、深津絵里と一緒に死んでしまった堀内敬子の旦那の竹原ピストルが生活に困っているのを見て、竹原が留守の間、二人の子どもの面倒を見ることを安請け合いしてしまう。
子どもたちや竹原らとの交流を通じ、モっくんの中に自分の今までの生き様はなんだったのだろう、という思いが湧いてくる。深津絵里の遺品で水に浸かって壊れてしまったスマホが一瞬息を吹き返し、「もう愛していない。ひとかけらも」と書いてある自分あての未送信メールを見つけてしまうというエピソードなどが挟まれながら、物語は進んでいく。
世間的にはどう見ても竹原の方が真面目で真っ当な生き方である。けれど、ただ単純に奔放で不道徳な生き方をしているモっくんに「もっとマジメな生き方をしようよ」ということを言っているのではない。
確かに結婚して子どもを産み、育て、自分たちはその同じ時間の中で一緒に年老いていく。そういう生き方が恐らく人間として最も真っ当な人生と言える。
でも人の生き方は様々だ。真っ当な生き方を望んでも、どうしてもできない人間もいる。敢えて、そういう真っ当な生き方を選択しない者もいる。そういう人間はいわゆる世間で言うところの真っ当な生き方や価値観を押しつけられても、そういうふうには生きられないので困るだけだ。
それに正直、何が真っ当かなんてわからない。それを考えさせられる映画だった。
『SEVEN』
デヴィッド・フィンチャーの作品では、『ベンジャミン・バトン 数奇な運命』が最高の作品だと僕は思っている。
そして、この『セブン』を見たときは余りの救いのなさに愕然とした。
けれど内容が濃いので、繰り返して見ても面白いし、その都度鑑賞に堪える映画だ。
キャスティングの妙もある。慎重で知性的、終始落ち着いた行動を取る刑事のモーガン・フリーマンとその真逆の性格のブラッド・ピット。ブラピの妻を演じる繊細な雰囲気のグウィネス・パルトロウ。
舞台になるのは、いつも土砂降りの雨の降っている暗い街。シカゴだか何だか多分そんな感じの街だ。
この映画の中で一番好きなシーンは、薄暗いカフェで、無鉄砲ですぐに感情的になる子供っぽいブラッド・ピットが心配だ、とグウィネス・パルトロウがモーガン・フリーマンに相談するシーン。
グウィネス・パルトロウがモーガン・フリーマンを呼び出して相談する。
グウィネス・パルトロウはブラッド・ピットの子を宿したことを打ち明けられずにいた。
産んだ方がいいのか産まない方がいいのか。こんな危険で救いのない世の中に、子供を産んでいいのか、というような意味の相談をする。
モーガン・フリーマンは彼女の話を黙って聞き、産まないなら妊娠のことは言うな、と言う。
モーガン・フリーマンの他者に対する優しさが伝わってくる、この映画の中で唯一救われるシーンだ。
ケヴィン・スペーシーのサイコキラーもはまり役。
リアリティーがありすぎて怖い。
『シンゴジラ』
いろんな役者が出てましたね。二三秒しか出ていなかった人も含めると、何人出ていたのか。
ゴジラは最初出てきたとき何とも気持ち悪いブヨブヨした生き物で「なんじゃこりゃ」と思った。
一回海に引っ込んで、次に出てきたときはだいぶ見慣れたゴジラの形に。
ゴジラを倒そうとする政府の官僚たちはみんな無表情で早口。「結論を早く出さねば」と言いながら、根回しと会議はしなくちゃならない。
総理大臣にも、事実上専権事項がないというのは情けない。なんでも「総理、ご決断を」と言われ、責任だけは取らされる。「オレが決めたわけじゃないのになぁ」というのは、まあどの世界でもよくあること。
そして気がつけば不覚にも寝落ち。丁度、核爆弾ではなく血液凝固剤で殺そうということになり、それを投与するというあたり。まあ一番のクライマックスだったかも知れないので、庵野秀明には申し訳ないことをした。
昔の怪獣映画は、CGはさすがにショボかったけど、僕が子どもだったせいもあるとは思うが、迫力とかリアリティーは『シンゴジラ』の比ではなかった。