塚田トオル's Blog

還暦間近のおっさんが綴る雑記録

『後妻業の女』

黒川博行の小説は大体そうだが、結局のところ内容が残酷だったり猟奇的だったりしない。
疫病神シリーズにしても半端なヤクザとその悪さに付き合わされるしょうもないチンピラくずれが出てくるだけで、喧嘩は派手だが、あまり人がバタバタ死んだりはしない。
『後妻業の女』も、死にそうな爺さん内縁関係になり財産を巻き上げることを生業にしている悪党の話だが、その家族からそれほど恨まれることもないし、大竹しのぶを操っている豊川悦治も間抜けな悪党の域を出ない。
映画は原作よりコメディー色が強い。本の方は、もうちょっと事件性が高いというか、現代社会の問題点の一つとして示されている感じがある。
大竹しのぶは、僕は(見た目が)嫌いなので、これが別の女優だったらもっと面白く見られたかも知れない。演技力とかそういう以前に生理的に受け付けない。若い頃は可愛かったので、年をとってあんな容貌になるとは思わなかった。
あとはEテレハートネットTVにもレギュラー出演し、何となく知性と福祉の人というイメージの強い風間俊介が、ものすごく頭の悪いガキ(大竹しのぶの息子)を一生懸命演じているのが面白かった。

『コンビニ人間』

内容(「BOOK」データベースより)
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。
 
「普通」に生きるというのは難しいものです。世間では、ある程度の年齢になれば結婚して家庭を持ち、子供を産み育てるのが「普通」であり、仕事で言えば正社員として職に就いて年齢に見合った収入を得るのが「普通」。「普通」でないものは「欠陥品」とされ、世間はその欠陥がどこにあるのか探そうとします。そして、その欠陥が世間が納得するようなものであれば見逃してくれますが、解らない、理解できない、あるいは人格や性格そのものに欠陥がある、ということになると、今度は奇異な存在として、社会不適合者というレッテルを貼られます。そこからイジメや差別が生まれ、そういう「普通」でないものは社会から排除されていきます。
じゃあ「普通」でない人が「普通」になるためにはどうしたらいいのか。歪な社会の様相が、コンビニという舞台で描かれているのが、この『コンビニ人間』です。

戦争について

毎年この時期になると広島と長崎に落とされた原爆、戦時中の内外の様子などのドキュメンタリー番組が放送される。太平洋戦争での体験を記憶して存命の方はまだまだ多いが、ほとんどは80代なので、記憶に留めているのは少年少女時代の本土での経験であり、実際に戦地に赴き戦闘に加わった経験を持つ人は、だんだん少なくなっている。終戦から72年も経てば当然のことだ。おそらく2050年ぐらいには、すべての国民が戦後生まれということになるに違いない。だからドキュメンタリー映像として仮想的にも先の日本の戦争を体感できるような資料を残しておくことは重要であるが、ただそれは俯瞰的に捉えたものではなく、誰がどこでどんなことを言ってどんな行動をしたかを、できるだけ細かく調査し残しておくことが必要なのだろうと思う。
この間のNHKスペシャル『本土空襲 全記録』『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』『樺太地上戦
終戦後7日間の悲劇』は、ネトウヨの方たちの評価はイマイチのようだが、僕としてはなかなか見応えがあった。
例えば731部隊。東大や京大、旧帝大の医師たちが、士官より上の立場で満州に赴き、現地の中国人を細菌兵器などの人体実験に使用した。赤痢チフス菌の水溶液を飲ませたり、びらんガスを吸わせたりして、その人間が死ぬまで実験を繰り返した。その犠牲者の数は5,000人とも6,000人とも言われる。ちなみに戦争における生物兵器の使用はそれより遥か以前、1925年のジュネーヴ議定書により禁止されている。ナチスが行ったホロコーストに比べれば人数は少ない。だが片やドイツがナチスの高官を地球の裏側まで追いかけ、その責任を厳しく追及しているのに対して、日本の場合、731部隊で人体実験を指示したエリート医師たちは、何の責任も追求されないどころか、戦後、大学や民間企業に戻り重職に就いている。この責任を敢えて明確にしない日本人の国民性は、後のサリドマイドやキノホルム(スモン)に始まり、ミドリ十字と旧東大系の医師たちによって引き起こされた薬害エイズに代表されるような数々の日本の薬害に通じるものがある。
樺太」の地上戦については、「戦争終結」後にも関わらず、あのような悲惨な戦いが繰り広げられていたことを、まったく知らなかった。

『何者』(映画)

朝井リョウ直木賞受賞作。ネット配信されたときに一度見て、先日WOWOWの放送を録画して、もう一度見ました。
本の方も読みましたが、その時はあまりピンとこない、いわゆる「刺さらない」印象を持ちました。
映画の方が、わかりやすくなっていると思います。朝井リョウのようにその時の流行や社会背景、風俗ありきで成り立つ書き手の作品は、映画やドラマとして見た方が、その言わんとするところが明確になるような気がします。『桐島、部活辞めるってよ』みたいに。
 
『何者』は一言で言えば、就活に翻弄され自分自身をすり減らしていく若者群像劇。就活を通して、自分とは何者かを模索するうち、自分は何者でもないと同時に何者でもあるという矛盾に気づいていくことになります。
就活を一緒にする仲間と言ってもライバルでもあるわけですから、表と裏では見せる顔が当然違ってきます。屈折した性格の佐藤健Twitterの別アカウントで仲間の悪口をつぶやいてばかりいるし、

『生きてるものはいないのか』

散歩する侵略者』を見たので、ついでに他の演劇の映画化作品も見てみようと思い、Amazonで中古のDVDを買ってみました。中古なのにけっこう高かったな。2,000円。
あんまり高くないんすか?これって。
 
『生きてるものはいないのか』は五反田団の演目ですが、前田司郎が小説の形でも書いています。小説の方は、とにかく訳も分からないまま次から次へと人が死んでいくという話で、読んだときは正直あまり面白いものとは思いませんでした。
ある地方の大学とその隣に建っている病院が舞台。その病院の地下では米軍が密かにウィルスの研究を続けているという都市伝説があるのですが、そしてある時、突然人がバタバタと死に始める。人が死んでいく理由は最後までわかりません。起承転結的なものは何もなく、まあ一種の不条理劇という感じです。
一方、映画の方は“言葉”として人の口から話される台詞が面白かったし、そういう意味では映画の方が小説よりも作品としては面白いものになっていたと思います。ただしあくまでもそれは小説と比べた時の話で、演劇だったらもっと台詞の面白さが生かされて、面白いものになっているのかも知れません。石井聰亙あらため石井岳龍監督。2012年作品。

『ヒットマン』2007

たまに人がバンバン死んでいく映画が見たくなるときがある。そんなときには正にうてつけの映画。とにかく殺人兵器に仕立て上げられたスキンヘッドの殺し屋が格好いい。どんな危機的状況にあっても表情も変えず、平然と拳銃を撃ち込んでいく姿は正しくハードボイルド。両手に拳銃を持って撃つときなどの、そのダンスのような身のこなしも美しい。
人気のあるゲームの実写版ということだが、実際どんなゲームなんだろうという興味も湧く。
ロシアの科学者が人間のDNAに手を加えてどんな戦闘にも耐える頭脳と肉体を持った殺人マシーンを作り出したはいいが、良心の呵責から、研究実験施設を放り出して逃走。一作目は他国の諜報機関と手を組み、麻薬だか武器売買だかで大儲けしている極悪人の抹殺に手を貸すという言わば勧善懲悪もの。二作目は逃亡した科学者がその研究成果を利用し、一儲けを企む民間企業から追われることになる。科学者には娘がいて、娘は父親を守るため、殺人兵器47番と行動を共にする。ただ47番も科学者を追う企業と敵対する組織に所属おり、敵対組織の手に研究成果が渡らないよう、科学者をその娘を抹殺せよという任務を負わされている。しかし47番は人間としての心も持っており、善悪の判断は自分の心に従う。科学者とその娘を『トランスポーター』シリーズもそうだが、リュック・ベッソンが製作に入っているから面白くなっているのかとも思う。才能の為せる技か。

『シークレット・イン・アイズ』

FBI捜査官キウェテル・イジョホーの同僚であるジュリア・ロバーツの娘がレイプされ殺された。
事件が起きたのは2002年。彼らは検事で野心家のニコール・キッドマンらとともにテロ対策に明け暮れていた最中の出来事。当時は次の大規模テロを未然に防ぐことが安全保障の至上命題で、ティーンエイジャー一人のレイプ殺害事件など、まともに取り合ってもらえなかった。
容疑者と目されたのは、テロ組織に潜入している子飼いの情報屋。彼を逮捕してしまうとテロ組織の情報が入ってこない。一旦は任意で引っ張ってきたものの、上司には叱責され、情報屋も当然のように証拠不十分で釈放されてしまう。
キウェテル・イジョホーはそんな警察組織に嫌気がさし、FBIを辞職。ジュリア・ロバーツも茫然自失、生きがいだった娘を殺され、魂の抜けた屍状態に。
ニコール・キッドマンは辛うじて検事局の中で出世し、LAで資産家の夫と結婚生活を続けていたが、そこへ13年間自責の念から前科者の写真を毎日1,000人以上見続け、とうとう真犯人のジョー・コルホーを見つけた!、とキウェテルが突然LAに舞い戻ってくる。
周囲から冷ややかな視線を送られつつも、かつての同僚たちと再び犯人逮捕に乗り出すキウェテルだったが、娘を無残に殺された当のジュリア・ロバーツがあまり乗り気でないことに違和感を覚える。ニコール・キッドマンとかつての同僚二三人だけが頼みの綱の状況の中、キウェテルは自分が真犯人と思っている男を追う。
男を見つけ出し、同僚の力も借りて車の窃盗容疑で逮捕。だが男はジュリア・ロバーツの娘を殺した犯人とは別人だった。考えてみればジュリア・ロバーツもそもそも13年前の事件の再捜査自体を歓迎していない様子。なにかがおかしく不自然。さて衝撃のラストは(ネタバレになってしまうので書きません)。
いろいろと突っ込みどころ満載の映画。そもそもジュリア・ロバーツの老けっぷりがすごい。ニコール・キッドマンの「まだ女を捨ててないわ」感との対比で、よけいに年を取って見える。カメラマンは実際の夫のダニエル・モダー。カメラを通してしわしわに老け込んだジュリア・ロバーツを見て、どう思っんでしょうね、という小山薫堂の問いに、「やっぱり家の奥さん天才だな。こんな役もできるんだって思うんじゃないですか?」とすかさずフォローを入れる信濃八太郎。小山薫堂の若い女好きがバレる。
それにニコール・キッドマンとキウェテル・イジョホーの関係もおかしい。テロ対策でNYからLAに派遣されていたキウェテルは、ニコール・キッドマンに一目惚れ。でも立場の違いから好きだとは言い出せず、FBIを辞めてNYに戻るときも「一緒に来てくれ」とは言えなかった。それから13年も経ち、お互い家庭も持ちつつ、LAに舞い戻ったキウェテルに「あの時、一緒に来いって言ってくれたら」みたいな台詞を思わせぶりに見つめ合いながらつぶやくニコール・キッドマン。あんなのあり得ねぇって。もともと肌の色も違う美女と野獣カップル。しかもニコール・キッドマンにはIT関連企業を経営しているイケメンの夫もいる。
この二人の恋バナが映画全体のサスペンス感を損なっているし、細かい部分で辻褄の合わないところはあるし、ヒットしたのかしなかったのか知らないけれど、どうしてW座でわざわざ取り上げたのかよくわからない。はっきり言って駄作。