塚田トオル's Blog

還暦間近のおっさんが綴る雑記録

万引き家族の件

ä¸å¼ã家æそんな意見が出てくるとは微塵も想像しなかったのですが、観た人たちの中には、日本人の家族には絶対見えないとか、あれは半島の人(在日)たちの話でしょとか、犯罪を助長するのはけしからんとか、あんなボロボロの簾なんか見たことないよとか、気持ち悪いとか、「盗んだのは、絆でした」って何だよとか、いう、それは様々な意見が相当出ていることを知りました。
あの程度の生活や家族を、あり得ないとか見たことないとか気持ち悪いとか言うのは、単にそういう人たちが普段目にしないだけで、残念ながら、映画のような貧しい生活を強いられている日本人は意外に多いのです。
こういうことを言うと、貧しいのは自己責任でしょ?と、反論されることも多いんだけど、まあ百歩譲って、日本人には憲法によって労働の義務が課せられているのだから、リリー・フランキーも職探しぐらいはした方がいいのかも知れないけど、安藤サクラのように会社の方針でいきなり馘首になって職を失うということもあるし、リリー・フランキーのように非正規雇用の人間は労働保険にも入れてもらえないから、怪我しても労災にもならなくて、突然に仕事を失うというケースはよくある。こういうケースは自己責任というのとはちょっと違うと思うし、一部は事業主の責任であることは明白で、一部はこの国の社会制度上の問題なんだろうと思うんです。一旦、貧しさの限界点を越えてしまうと、もうどんどん貧しさの渦に飲み込まれていって、抜け出せなくなってしまう世の中なんです。
子どもに万引きを手伝わせるなんてけしからん、と言っている人たちがいるけど、あくまで映画のエピソードとして見せているわけですからね。そこを怒ってもしょうがない。あくまでリアリティを追求していった結果、映画としてああいう構成になっているわけですからね。
年金欲しさに亡くなった親の亡骸をそのままにしておくというような話は実際にあるし、先日も5才の娘を虐待して殺してしまった若い夫婦が逮捕されるという事件が起こったばかりですよね。私たちは、まずそういう貧困や暴力の下に置かれた生活を強いられている人たちの存在をしっかり認識して、目をそらすことをしてはいけないと思うわけです。
貧しさの中、都会の片隅でひっそり生きているという家族もいるんだという事実を知らない人がいるということ自体が僕にとっては驚きでした。みんな、どれだけ裕福なんだか知らないけれど、お金を持っている人たちは、自分と同じようなハイクラスの人たちとしか付き合わないから、自分の目に見えているものだけがこの世のすべてだと勘違いしているんじゃないかという気がします。
貧乏や犯罪のことばかりいろいろ言われているけど、大体この映画はお金がどうこうと言うより、家族というもについて考えた映画なのではなかったんじゃないか。
大まかに言えば、血縁というのはそんなに崇め奉るほど大事なものか?ということを観客に問いかけている。まあそんなこと他人に言われなくてもわかってるよっていう人が大勢いると思いますけど。つまり血よりも人と人の結びつきを強めるものがあるのだということですね。
リリー・フランキーが家に連れてきてしまった「ゆり」ちゃんを育児放棄している片山萌美と山田裕輝なんか、ひどいじゃないですか。あれだけ見れば、血のつながった親の元にいるよりも知らない人たちとの共同生活の方が子どもにとっては、よほど安全で安心な生活が送れる。要するに、松岡美優が働いている風俗のお客さんの「4番さん」(池松壮亮)のように、圧倒的な孤独、もしくは貧しさの中で生きている人たちは世の中にたくさんいて、そういう人たちを救うシステムが日本社会にはない。だから、ああいうふうに血縁関係のない孤独な人たちの集まりが安らぎを与えてくれるという状況が生まれるんだろうと、僕は思います。
樹木希林の夫の再婚相手の家族?にしたって、松岡美優の存在なんか、もう忘れてしまって、うわべだけ繕って、仲良し上流家族として暮らしている。そこにその安定を崩す存在としてときどき樹木希林が金をせびりに現れ、夫婦が必死に見ないようにしている自分たちの本質を思い出させる。
安藤サクラのパート役、暑い暑いと言いながらエアコンをつける金もなく、窓を全開にし、それでも暑くて、薄い部屋着がいつもうっすら湿っている、というような役柄は「この人本物なんじゃないか」と思わせる迫力があり、部屋の散らかり具合など、映画全編に貧困のリアリティが表れているな、と思いました。
でも昭和30年代、40年代くらいは、こんな家が半分ぐらいだったんじゃないかというような気がします。うちだって、ここまでではなかったけれど、これに毛の生えたようなものだった。この何十年かで、日本人の生活は驚くほど快適になったな、とそこにも驚きました。