塚田トオル's Blog

還暦間近のおっさんが綴る雑記録

『すばらしき世界』

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『すばらしき世界』西川美和監督

去年、今年かな?コロナで見に行けなくて。

amazonで配信されてたんで早速見ました。

いろんなことを見て見ぬ振りしないと上手く渡っていけない世の中ですよね。

まあ世の中っていうのがそういうもんなのかも知れないけど。

でも、おかしいことはおかしいって言ったり

下心なく誰かに助けの手を伸ばしたりしている人っていうのはちゃんといるわけで。

自分がそうじゃないってだけでね。

世の中そんなもんでしょ、なんて高くくって生きてると、そのうちしっぺ返し喰らうぞっていうね。

もう喰らってるのかもしれませんけど。

でも暴力で解決しちゃうのは、何はともあれ同意はできないな。

あの人もこの人も

僕はいわゆる“アラカン”だ。
新型コロナウィルスの感染予防対策で、家の中で過ごすことが多くなった(以前と同じとも言えるが)関係で、昔のドラマや映画を見る機会が増えた。
たった5〜6年前の作品なのに、すでに亡くなっていたり、芸能界から消えてしまったりした人たちが、やたら多いことに驚かされる。
逆に勝手に「もうこの人って死んじゃったんだよな」と思って見ていると、実は死んでいなかった、ということも多い。
先日『オケ老人』という邦画を見た。2015年の作品。杏が主役で老人ばかりの寂れたオーケストラを盛り上げ再生させる物語である。坂口健太郎黒島結菜笹野高史小松政夫左とん平石倉三郎藤田弓子、茅島成美、光石研といった錚々たる顔ぶれで作られた小品佳作だ。「小松政夫も茅島成美も死んじゃったでしょ?なんだか死んじゃった人がいっぱい出てる映画だよね」と僕は妻に言った。
妻は「えー?小松政夫も死んじゃったっけ?」と言った。
「たしか」
妻が「そう言えば、石倉三郎もだよね」と言うので、今度は僕の方が「そうだっけ?あ、そうだったか…」となった。
「たった五年しか経ってないのに、このぐらいの年になるとその間に死んじゃうことってあるんだね」と言って、二人で納得した。
ただ後になって、僕は「本当に死んじゃったっけな…」と不安になり、検索してみた。
すると、死んじゃったのは左とん平だけで、その他の人はみんなまだ存命ということがわかった。
そこで思ったのは「どうしてもう死んじゃったと思ったのか」
確かにみんな高齢だし、亡くなったと思ってしまうのは致し方ない部分もあるとは思うが、要はTVであまり顔を見なくなったせいではないか、と思うのだ。
TVで顔を見ないと、もう死んじゃったと思ってしまう、自分の思考回路の単純さに呆れるとともに、自分たちの世代は何だかんだ言って、TV偏重なんだなということを改めて思った。
それに最近、若い友人を癌で亡くしたばかりでもあり、人間、少しの間に病気になったり亡くなったり、急激な変化が起こるのは普通のことなんだな、という思いを新たにしていたせいもある。
人生、それが幸福であれ不幸であれ、いつ何が起きてもおかしくない。
「人生には上り坂と下り坂があり、もう一つ忘れてはいけない『まさか』があります」というフレーズは結婚式のスピーチの定番だが、この言葉の作者は西原理恵子だということを最近知った。

『友罪』


勘違いしていた。
何と?『光』と。
『光』は三浦しをん原作のサスペンス。大森立嗣が脚本、監督の映画だ。
瑛太が厄介な悪人を演じている。もう一人の主役は井浦新。関係ないけど、この映画を撮った大森立嗣監督は千鳥の大吾にしか見えないなぁ。

『有罪』は瀬々敬久監督。薬丸岳の小説が原作で、主役の瑛太は子供の頃、連続児童殺傷事件を起こしている人物。
調べてみたら平成の実際の子供の連続殺傷事件は88年から89年にかけて宮崎勤の起こした「埼玉連続幼女誘拐殺人事件」と、酒鬼薔薇聖斗で知られる1997年に「少年A」が起こした神戸のものと、有名なものは二つあるんですね。少年Aは少年院を出た後、今も観察下に置かれながら普通に社会で生活している。一方の宮崎勤は事件を起こした時の年齢が26歳。女の子ばかり4人もの幼児を殺害していて、死刑判決が確定し2008年に死刑が執行されている。
でね、『友罪』の話なんだけど、瑛太の心境は分かるんですよ。幼い時に二人の子供を殺して、その罪の意識に苛まれつつも、過去の事件が邪魔して、仕事も人付き合いも上手く行かないっていうね、そういう生活を強いられてる。精神的に未成熟で、知能の発育遅滞もあるような。まあ簡単に言えば生い立ちからして苦労ばかり強いられてきた、準精神疾患患者ですよね。

一方、生田斗真の方はよくわかんないんですよ。彼の心境が。ストンと腑に落ちない。
中学生の時、親友のいじめに加担した挙げ句、「これから死ぬよ」みたいな電話を掛けてきたその親友を「勝手にすれば」という冷たい言葉で突き放してしまったことを、今でも夢に見て魘されるほど後悔している。雑誌の記者だったのに、雑誌の運営方針が自分の主義主張に合わなかったったのか、その辺りは詳しく描かれてないんでよく解らないんだけど、それで記者を辞めちゃって、瑛太と同じ町工場で劣悪な職場環境で単純な肉体労働をしてるんですね。町工場では、瑛太もちょっとおかしなところがあるから、周りからは敬遠されちゃうわけですけど、生田斗真だけはそんな瑛太に普通に接してやってる。まあ自分と同じ闇を抱えてる境遇だからってことなんでしょう。でもね、連続殺傷事件と死ぬほど困ってる親友をある意味見捨てちゃうことと、同じ次元なのかな、と、そこが引っかかるんですね。人の命が失われるという点においては同じなんだろうけど。
ああ、でもここまで書いて、何だか実際に殺すのも、間接的に死に関わるのも同じことなのかなって気もしてきました。人の命が無くなるっていうのは同じですもんね。

 

 

『あやしい(怪しい)彼女』を見比べてみた。

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まずタイトルは韓国版が「怪しい」で日本版がひらがな表記の「あやしい」。韓国版の原題は『Miss Granny』
韓国版の方は、まず主人公の女の子があまり可愛くない。これは日本版の多部未華子に当然ながら軍配が上がる。この映画は主人公の女の子のキャラクターをどれだけ可愛く、面白く見せられるかにかかっているわけで、それはつまりキャスティングが重要ということになる。そういう意味で言えば、日本版の方が圧倒的に作品の出来としては勝っている。バンドをやっている孫の男の子も、日本版は北村匠海だし。韓流番は無名の(たぶん)冴えない男の子だ。ところが解説を見ると、当時(2014年)韓国で人気のあったタレントが多数出ているようなので、キャスティングには韓国版もそれなりに力を入れていたことがわかる。
ただバンドのオリジナル曲だけは韓国版の方が良かったかな。日本版は小林武史が関わっている割には、あまり出来が良くなかった。
苦労して一人で子供を育て、その課程で友だちもなくし、周りに悪態をつき、家族からも疎まれる老人になっても、もう一度若さを取り戻して、自分がかなえられなかった夢を実現できるとして、若いままの自分であり続けたいとはたぶん思わないのではないか。再び二十歳に戻って、そこから人生をやり直すはめになったら、きっとしんどいという思いの方が強いに違いない。

ミスター・ガラス

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ミスター・ガラス

M・ナイト・シャマラン監督。登場人物は『アンブレイカブル』と『スプリット』の主人公だが、話としては『アンブレイカブル』と『スプリット』を単純に足して二で割ったものにはなっておらず、人智を越え科学も超越した超常現象や超能力的なものの存在について、その可能性を問うことが主たるテーマになっている。M・ナイト・シャマラン監督の『シックスセンス』から続く主題の流れを汲む作品である。

超能力を持った者達の存在を認めることをよしとしない集団との対決という物語になっているのだが、この不寛容の時代に、個人も社会も人間の多様性を積極的に認め、マイノリティーと共存する社会を目指していくべきだという監督の主張も垣間見える気がした。

万引き家族の件

ä¸å¼ã家æそんな意見が出てくるとは微塵も想像しなかったのですが、観た人たちの中には、日本人の家族には絶対見えないとか、あれは半島の人(在日)たちの話でしょとか、犯罪を助長するのはけしからんとか、あんなボロボロの簾なんか見たことないよとか、気持ち悪いとか、「盗んだのは、絆でした」って何だよとか、いう、それは様々な意見が相当出ていることを知りました。
あの程度の生活や家族を、あり得ないとか見たことないとか気持ち悪いとか言うのは、単にそういう人たちが普段目にしないだけで、残念ながら、映画のような貧しい生活を強いられている日本人は意外に多いのです。
こういうことを言うと、貧しいのは自己責任でしょ?と、反論されることも多いんだけど、まあ百歩譲って、日本人には憲法によって労働の義務が課せられているのだから、リリー・フランキーも職探しぐらいはした方がいいのかも知れないけど、安藤サクラのように会社の方針でいきなり馘首になって職を失うということもあるし、リリー・フランキーのように非正規雇用の人間は労働保険にも入れてもらえないから、怪我しても労災にもならなくて、突然に仕事を失うというケースはよくある。こういうケースは自己責任というのとはちょっと違うと思うし、一部は事業主の責任であることは明白で、一部はこの国の社会制度上の問題なんだろうと思うんです。一旦、貧しさの限界点を越えてしまうと、もうどんどん貧しさの渦に飲み込まれていって、抜け出せなくなってしまう世の中なんです。
子どもに万引きを手伝わせるなんてけしからん、と言っている人たちがいるけど、あくまで映画のエピソードとして見せているわけですからね。そこを怒ってもしょうがない。あくまでリアリティを追求していった結果、映画としてああいう構成になっているわけですからね。
年金欲しさに亡くなった親の亡骸をそのままにしておくというような話は実際にあるし、先日も5才の娘を虐待して殺してしまった若い夫婦が逮捕されるという事件が起こったばかりですよね。私たちは、まずそういう貧困や暴力の下に置かれた生活を強いられている人たちの存在をしっかり認識して、目をそらすことをしてはいけないと思うわけです。
貧しさの中、都会の片隅でひっそり生きているという家族もいるんだという事実を知らない人がいるということ自体が僕にとっては驚きでした。みんな、どれだけ裕福なんだか知らないけれど、お金を持っている人たちは、自分と同じようなハイクラスの人たちとしか付き合わないから、自分の目に見えているものだけがこの世のすべてだと勘違いしているんじゃないかという気がします。
貧乏や犯罪のことばかりいろいろ言われているけど、大体この映画はお金がどうこうと言うより、家族というもについて考えた映画なのではなかったんじゃないか。
大まかに言えば、血縁というのはそんなに崇め奉るほど大事なものか?ということを観客に問いかけている。まあそんなこと他人に言われなくてもわかってるよっていう人が大勢いると思いますけど。つまり血よりも人と人の結びつきを強めるものがあるのだということですね。
リリー・フランキーが家に連れてきてしまった「ゆり」ちゃんを育児放棄している片山萌美と山田裕輝なんか、ひどいじゃないですか。あれだけ見れば、血のつながった親の元にいるよりも知らない人たちとの共同生活の方が子どもにとっては、よほど安全で安心な生活が送れる。要するに、松岡美優が働いている風俗のお客さんの「4番さん」(池松壮亮)のように、圧倒的な孤独、もしくは貧しさの中で生きている人たちは世の中にたくさんいて、そういう人たちを救うシステムが日本社会にはない。だから、ああいうふうに血縁関係のない孤独な人たちの集まりが安らぎを与えてくれるという状況が生まれるんだろうと、僕は思います。
樹木希林の夫の再婚相手の家族?にしたって、松岡美優の存在なんか、もう忘れてしまって、うわべだけ繕って、仲良し上流家族として暮らしている。そこにその安定を崩す存在としてときどき樹木希林が金をせびりに現れ、夫婦が必死に見ないようにしている自分たちの本質を思い出させる。
安藤サクラのパート役、暑い暑いと言いながらエアコンをつける金もなく、窓を全開にし、それでも暑くて、薄い部屋着がいつもうっすら湿っている、というような役柄は「この人本物なんじゃないか」と思わせる迫力があり、部屋の散らかり具合など、映画全編に貧困のリアリティが表れているな、と思いました。
でも昭和30年代、40年代くらいは、こんな家が半分ぐらいだったんじゃないかというような気がします。うちだって、ここまでではなかったけれど、これに毛の生えたようなものだった。この何十年かで、日本人の生活は驚くほど快適になったな、とそこにも驚きました。

『慟哭』貫井徳郎

新興宗教にのめり込み、少女を生け贄として死者復活の黒魔術を行う男と、その連続幼女殺害事件を捜査する警視庁特捜本部の緊迫した状況が、チャプターごとに交互に描かれつつ小説は進んでいく。

ラストの3~40ページのどんでん返しは、こんなベタなどんでん返しを書く作家がいるんだ、とある意味ビックリさせられた。

ある新興宗教を狂信した男は、亡くした娘の復活を願い、黒魔術に没頭する。さらってきた少女を生け贄にして殺しても、当然ながら、少女が死んだ娘として蘇るはずはなく、次こそは次こそはという思いで、少女を攫ってきて殺害することを繰り返す。

一方、特捜本部のキャリア、佐伯はこの連続少女殺害事件の陣頭指揮をとっており、それらの場面が交互に描かれるのだ。

実は、佐伯は以前の少女誘拐殺人事件で自分の娘を犯人に殺され、その後悔と苦悩から警察を辞めざるを得なくなった。そして一年後、その悲しみの重圧から佐伯自身が黒魔術で娘を生き返らせようと犯行を繰り返すようになったのは佐伯自身だったのである

最初の少女連続殺害事件と佐伯が起こすことになった犯行という二つの事件が、後の事件において佐伯が犯人とはわからないよう、巧妙に書かれているので、読者は「もしや」という思いは抱きつつ、ラストで事実を突きつけられて呆然とする。

というのがこの小説の面白いところである。